@article{oai:shitennojiuniversity.repo.nii.ac.jp:00000212, author = {南谷, 美保}, issue = {66}, journal = {四天王寺大学紀要}, month = {Sep}, note = {三方楽所楽人は、禁裏と江戸幕府関係の儀式およびこれらに関連する社寺における神事、法 会などの奏楽を担当し、さらには、三方楽所以外のたとえば日光楽人のような楽の演奏を職務 とする人々の指導を行っただけではない。すでに、多くの考察が明らかにしているように、江 戸時代後半になると楽の演奏を職務とする専門職以外の「素人」弟子への楽の指導が広く行わ れるようになっていた。つまり、三方楽所の楽人は、雅楽のお師匠さんとして、雅楽の演奏を 職務としない「素人」集団への指導も行っていたのである。ところで、そうした「素人」集団 を対象とする楽の指導の場においては、指導者である楽人から稽古者に対して、一方的に楽に 関する知識や技術が伝達されるだけであったのだろうか。本稿においては、そうした楽の稽古 の場に集う「素人」とされた楽の稽古者集団がどのような人々によって形成され、そこではど のような「文化」が共有され、それがどのように楽の専門家である楽人に関わっていたのかと いうことについて考えてみたい。以下では、東儀文均の日記である『楽所日記』のうち、弘化・ 嘉永年間のものを対象として、文均と京都における弟子たちとの交流を考察するものとする。}, pages = {47--73}, title = {楽人東儀文均の交流関係から見えるもの―弘化・嘉永年間の京都での動向から}, year = {2018}, yomi = {ミナミタニ, ミホ} }